
誰も住んでおらず、傷みの激しかった生家に千代は愕然とし、修復を依頼しました。昭和48年(1973)千代77歳のときに、修復が完成。その時のことをこう記しています。
--「出来上がったとき、私は、『お母(かか)、みておくれえ。うちの家は、川西で一番ひどい家では、のうなったでよ』と、あの、家のことをきにかけながら死んで行った母に、言いかけたいような気持であった」--(『生きて行く私』より)

(『雑誌くるとん』32号より)

(宇野千代生家展示より)
また、著書には生家を守る岩国の人々への感謝がつづられています。
--玄関を入った。私はあっと声を上げた。あれは何というのだろう。今、庭から剪って来たと思えるみずみずしさで、盛り花が飾られていた。
そればかりではない。花は家の中のすべてに飾られてある。・・・まるで花ととともにまっていましたというように。
すべて、留守中の家を管理してくださる故郷の人びとのあたたかな配慮である。
縁側に出る。芝生には、一本の雑草もない。もみじの新緑が美しい。仏頭がある。水があげられている。
あきもせず庭に見入るのであった。
私はひとびとの限らないあたたかさの中で幸福であった。--『私 何だか 死なないような 気がするんですよ』より
